まず結論から
- 困りやすいのは競技そのものではなく、その前後です。学会の解説は、中高生が話しにくさを感じやすい場面として部活動と入学面接を名指ししています。
- 人前で話すときに体がこわばることは、実験でも測られています。姿の見えない聞き手が部屋にいるだけで、吃音のある成人の唇の動きは、いない条件と比べて型にはまった硬い動きの方向へ変わりました。
- どもりは「どもりたくない」と最も強く思っているときにこそ起きる、とっさの反応だと説明する理論があります。自分の意思で止めているのではありません。
- 同じ理論は、この「固まる感じ」を、プレッシャーのかかった場面で体が思いどおりに動かなくなる「あがり」「イップス」と並べて説明できるとしています。
- 力を入れて押し切るという対処は、おそらく裏目に出ていると論じられています。「気合いで言い切れ」は方向が逆になりえます。
ただし、ここで挙げた実験は実験室で画面の文を読む課題であり、著者自身が「実際のやりとりとは違う」と限界を断っています。イップスとの並べ方も、新しい実験データではなく仮説として提示されたものです。断定として読まないでください。
終わりの挨拶と号令——言い換えがきかない言葉
部活動の中で最初に立ちはだかるのは、たいてい決まり文句です。ふだんの会話なら、言いにくい言葉は別の言い方に置き換えてしのげます。ところが号令と挨拶は、言い換えると成立しません。しかも、その役はしばしば上級生や部長に回ってきます。
高校で部活動の部長を務めた当事者(吃音の情報サイトの体験談)
日常の挨拶や日直の号令、マニュアル対応などは、言い換えが難しいため吃音が出やすくなります。
特に母音(あいうえお)で始まる言葉はブロックが出やすく、「おはよう」「ありがとう」などよく使う言葉で言いにくさを感じていました。
私が最も苦労していたのは、部活の号令です。
部活が終わるときに、部員全員が集合して挨拶をするのですが、部長は最初に1人で言うルールでした。
「部員一同、礼!ありがとうございました。」
これが私が言わなければいけないセリフでした。
部長に就いた初日、この人は抱負を述べたあとに号令をかけました。「礼!」までは出た。部員が一斉に頭を下げた。その先の「ありがとうございました」が出てこない。部員はお辞儀をしたまま顔だけをこちらに向け、不思議そうにしていた——本人はそう書き残しています。以降、号令のたびにお辞儀のあとに数秒の間があくようになりました。なお、声が出ずに間があく状態は「難発」「ブロック」と呼ばれ、思春期以降はこの型が中心になっていくとされています。
出典: ブロックが酷い吃音があっても、私が部長を務められたわけ。(HAPPY FOX)(台帳: V0148)
この困りごとは、その人固有のものではありません。学会の解説は、思春期以降になると症状の中心が難発に移り、発話が困難になってやりとりに支障が出ること、そして中高生では部活動や入学面接が、話しにくさを感じやすい場面として挙げられることを書いています。同じ解説は、失敗した経験が重なると、話し始める前から不安や恐怖を感じ、会話や人付き合いそのものを避けるようになること、言いにくい言葉を言い換えて吃音を隠すようになることも述べています。号令のように言い換えがきかない役は、この「隠す」という逃げ道が最初から塞がれている場面だといえます。
宣誓・代表の役が回ってきたとき
大会には、代表としてひと言を述べる役があります。選手宣誓、キャプテンの挨拶、試合前の円陣。誰かが引き受けなければならず、断る理由を説明することが、その言葉を言うことよりも難しい場合があります。
中学時代を振り返った当事者の手記(小中高校生向けの吃音のつどいのサイト)
部活動(バレーボール)の県総体に出場することになったとき、その年は自分達の市の代表が宣誓をすることになっていた-つまり僕が宣誓をすることになっていた-のだが、アベック出場することになっていた僕の中学校の女子のキャプテンに、宣誓を代わりにしてもらったこと。
あげていくと、まだまだ出てきそうだ。上のようなことがあったとき、僕はいつも「もどかしい」気持ちになった。「どもりさえなかったら・・・できるのに!」、「どもりさえなかったら・・・」。何度こんなことを心の中で繰り返しただろう。
この手記は、中学時代の記憶を箇条書きで並べたものです。答えが分かっているのに「わかりません」と答えた授業、朗読の順番が近づくにつれて心臓の音が周りに聞こえるのではないかと思ったこと、連絡網が回ってくるたびの憂うつ。そのリストの最後に置かれているのが、県大会の宣誓を他校のキャプテンに代わってもらった一件です。代わってもらえたのだから解決したように見えますが、本人が書き留めているのは「もどかしい」という一語でした。この「できるのに、できない」という感覚には、研究の側からの説明があります。
出典: 吃音問題と入学試験の面接(小中高校生の吃音のつどい)(台帳: V0073)
ある理論は、話し方には「考えずにできる自動の部分」と「意識して組み立てる部分」があり、どちらかに極端に寄った話し方はかえって流暢になると整理しています。とっさの叫びや独り言、決まり文句の挨拶は自動寄り。訓練で新しく習う話し方は意識寄り。どちらも引っかかりが小さいので出にくい。いちばん起きやすいのは、本来なら考えなくてもできるはずなのに、伝える責任が重いために意識を使いすぎてしまう話し方だ、というのです。原典がその代表例として挙げているのは、「名前を言ってください」と言われて自分の名前を言う場面です。宣誓の文言も、円陣の掛け声も、覚えていないから言えないのではありません。覚えきっているのに、その場の重さが上乗せされる型の言葉です。
「場数を踏ませれば慣れる」という指導
指導者の側にも善意があります。苦手なら回数をこなせばいい、という考え方は、技術の練習では実際に通用します。だからこそ、話すことにも同じやり方が持ち込まれます。
中学で部活動の部長だった当事者(吃音の情報サイトの体験談)
しかし中学生になると、電話をかける場面も増えてきます。私は部活動の部長だったため、連絡網の1番上になり、他の人より多く電話をかけなければいけなくなりました。
場数を増やして電話の練習をさせよう、という顧問の先生なりの配慮だったのかもしれませんが、正直勘弁して欲しかったです。
「ただ単に緊張して噛んでしまうわけじゃないから、闇雲に練習すれば治るというわけではないのに!」
いつもそう思っていました。
実際、この時の失敗経験を後々まで引きずることになってしまったように思います。
小学生のころ、この人は相手の親が電話に出たときに名前が出てこないことが多く、あらかじめ電話する時間を友達に伝えておくという段取りで切り抜けていました。名乗らなくて済むように、その時間に待っていてくれる友達がいた、とも書いています。中学で部長になり、連絡網の先頭に置かれたことで、その段取りは使えなくなりました。本人が「後々まで引きずった」と振り返っているのは、電話そのものではなく、繰り返された失敗のほうです。力ずくで押し切る対処については、研究の側からも疑問が示されています。
出典: 吃音で電話が苦手なあなたへ。無理に電話をかけなくてもいい理由(HAPPY FOX)(台帳: V0154)
人前で話す実験を行った研究者たちは、考察の中で、多くの吃音のある人が取っている対処——力を入れる、押し出す——はおそらく裏目に出ていると述べています。吃音の訓練法の多くが、何らかの形で緊張を減らして話すことを勧めてきた、という整理も添えられています。同じ考察は、伝えることに不安を抱えている人ほど、怖さに少しずつ慣らしていく手続きが役に立つはずだと論じていますが、これは訓練の中で組み立てられる手続きとして書かれているものです。逃げ場のない場面を数だけ増やすこととは違います。
別の理論も、同じ方向の注意をしています。流暢に話すことそのものを目標にする訓練は、意識的な制御を増やすことで短い期間は非流暢を減らせるものの、その過剰な制御がかえって引っかかりを増やし、再発と「またできなかった」という感覚につながりうるというものです。回数を課す前に、何のために話すのかを一緒に決め直すほうが、理屈の上では筋が通っています。
部活が居場所になることもある
ここまでは、話す役が回ってきたときの話でした。一方で、運動部そのものが救いになったという記録も残っています。ただしそれは「吃音が治った」という話ではありません。
吃音のある息子の13年を振り返った母親の手記(吃音相談室のサイト)
環境が変わり、友だちが変わりました。自転車も乗れないような子が、誘われてラグビー部に入りました。そのラグビー部が俊哉の中高6年間の居心地のよい居場所になりました。ラグビーは下手だけど一緒にいる友だちができ、可愛がってくれる先輩がいて「学校、楽しい」と初めて言ったのも中学生のときでした。小学生のときはいつも「どもり、大丈夫かな」と思っていたのが、中学生になり「ラグビー、ついていけるかな。ケガしてないかな」と変わりました。生活全般がラグビーになりました。
この手記は、小学1年の7月に息子の声が出なくなった日から書き起こされています。2学期が始まるころには名前も言えない状態になり、自己紹介、朝の健康観察、音読、九九と、話す場面のたびに苦しんだこと。中学は学区外の学校を受け、面接では配慮を受けたこと。母親はこの文章の冒頭で、息子が大学2年になった今も吃音は続いている、と書いています。変わったのは症状ではなく、心配の中身のほうでした。子どもが安心して過ごせる場を持てているかは、学校の側からも確かめられます。
出典: 《特集:親の体験・親の気持ち》レジリエンスを育てる(吃音と上手につきあうための吃音相談室)(台帳: V0048)
公的なポータルの資料は、吃音のある子どもは話す場面でしか症状が出ないために悩みが小さく見積もられやすいこと、そして話し方を真似されたり笑われたり、「なんでそんな話し方なの?」と聞かれたりすることが多いことを指摘しています。そのうえで、担任や養育者、支援者が「真似されていない?」「笑われていない?」「話し方を質問されていない?」と本人に率直に尋ねることを勧めています。クラス替えのたびに同じリスクが立ち上がるので、毎年確かめるのがよいとも書かれています。部やチームは年度ごとに顔ぶれが変わる場なので、この確認は部活動にもそのまま当てはめられます。学校生活全体の配慮については、吃音と学校の配慮の記事で、通級の使い方や毎年の申し送りまで扱っています。
コートの上と、コートの外——公表したプロ選手
「吃音のあるスポーツ選手」を知りたくてこのページにたどり着いた方もいると思います。日本のプロ選手が自分の症状を公表し、その経緯まで語った記録があります。
プロバスケットボール選手・加藤寿一さん(ライジングゼファー福岡/スポーツメディアの実名取材記事)
苦しみから解放されたのがバスケットボールを楽しむ瞬間だった。プレーに夢中になると症状が気にならない。コート上は短い単語やジェスチャーで意思の疎通が成立した。それでも日常のコミュニケーションの壁は厚かった。吃音を理由に、将来の選択肢を狭めようとした時期もあった。
加藤選手が自分の吃音を意識したのは幼稚園のころで、「ありがとう」の最初の「あ」を繰り返す話し方を子ども同士でまねされた記憶が残っている、と記事は伝えています。2023年に福岡へ加入し、翌24年の秋に社会貢献活動の中で症状を公表しました。「自分と同じように、未来を諦めることを考えてほしくない」。公表を母に伝えていなかったこと、間接的に知った母から「悩む親の気持ちがあなたに分かる?」と言われ、うまく答えられなかったこと、その後に母が涙ながらに語った言葉までが記事には書かれています。コートの上では短い言葉とジェスチャーで足りる——この対比は、話す場面の性質によって困りごとが変わるという整理と重なります。
出典: 「未来を諦めないで」吃音を公表したBリーガー、母の涙が活動の原点に(西スポWEB OTTO!)(台帳: V0007)
海外に目を向けると、米国と英国の吃音支援団体が、分野別の当事者一覧を公開していて、その中にスポーツ選手の区分があります。英国の団体の一覧には、バスケットボール、ゴルフ、サッカー、競馬といった競技の選手が並んでいます。同じ一覧で、ある元騎手は、馬に乗って野を駆けているあいだは自分の吃音を気にしなくてよかった、だから馬のほうへ向かったのだろう、と振り返っています。またあるサッカー選手は、吃音のある子どもの親に向けて、最もよい形で自分を表現するために必要な時間を子どもに与えてほしい、自分の家には聞いてくれる母と祖父と父と兄がいて、それが何よりの違いを生んだのだ、と語っています。名前を並べることの受け止め方そのもの(励みになる面と、しんどくなる面)は、吃音の有名人の記事で扱っています。
なぜ競技中ではなく、その前後なのか
ここまでの記録には、同じ形が繰り返し出てきます。動いているあいだは気にならない。止まって、全員がこちらを見て、決まった言葉を言う番になると出ない。研究の側から言えることを三つに分けて置きます。
一つめは、聞き手がいるだけで発話の動きが変わることです。ある実験では、吃音のある成人とない成人に同じ文を繰り返し言ってもらい、唇に付けたしるしを追いかけて動きを測りました。聞き手がいる条件では、面識のない男女2人が参加者の真後ろの椅子に座り、姿は見せずに、時々わざと咳をして存在だけを知らせています。この条件のとき、吃音のある成人の発話は、文の中の動きが型にはまり、安定しすぎる方向へ動きました。聞き手がいない条件と比べても、吃音のない人と比べても、その差が出ています。そして吃音のない成人には、この動き方の変化は起きませんでした。
二つめは、その硬さがどこから来るのかという解釈です。著者たちは、吃音のある人が、人前という負荷のもとで生じる難しさを補おうとして、融通のきかない話し方を取っているのかもしれないと述べています。あわせて、運動をするときに注意が外の的に向いていればうまくいき、自分の体の内側に向くと邪魔される、という仮説を引いています。流暢に話せるだろうか、相手はどう受け取るだろうかという心配が、ふだんは意識せずに動いている発話の仕組みへ注意を引き戻してしまい、その注意そのものが邪魔をする、という筋書きです。
三つめは、逆に一時的に流暢になる条件が知られていることです。総説は、声を合わせて読むこと、リズムに合わせて話すこと、外国語なまりや役を演じるような「いつもの自分の話し方ではない」発話、雑音の中で話すこと、そして歌うことを挙げています。これらの条件で流暢になることは、問題がのどや末梢の神経にあるのではなく、話す動きを組み立てる段階にあることを示唆すると解釈されています。リズムを使った話し方については、吃音とメトロノーム法の記事で、続かない理由も含めて詳しく扱っています。
「イップス」というスポーツの言葉で説明する
スポーツをしている人に吃音を説明するとき、いちばん距離の近い言葉があります。イップスです。狙って打てるはずのパットが打てない、いつもどおり投げるだけの送球が投げられない——あの現象です。
2022年に出た理論の論文は、吃音で感じる「自分の意思ではない」という感覚を、脳の同じ仕組みが関わる他の現象と並べています。パーキンソン病で歩行や発話が固まる現象と、プレッシャーのかかった場面で運動が意のままにならなくなる「あがり」や「イップス」です。イップスの代表的な説明は、自分に注意を向けすぎる意識的な制御が自動的な運動を壊してしまう、というもので、これは吃音のある人が意識的な制御に頼りすぎることと同じ構図になる、と論文は述べています。そのうえで、イップスのときの主観的な体験は、どもっている瞬間の体験と驚くほどよく似ているという報告にも触れています。
この並べ方が役に立つのは、周りに説明するときです。同じ論文は、吃音のない人も言葉に詰まることはあるが、それは自分で舵を取るために意図してやっている詰まりだと整理しています。これに対して吃音の詰まりはとっさの反応であって作戦ではなく、しかも「どもりたくない」と最も強く思っているときにこそ起きる。この「固まる感じ」は、吃音に付随して後から身についた癖ではなく、吃音そのものの本質的な一部だ、とも言い切っています。イップスを経験したことのある選手や指導者になら、この説明は通じます。
ただし、この論文は新しい実験データを出したものではなく、既存の説明と実験結果を統合して提案された仮説です。また、聞き手の実験のほうも、参加者が実験室で画面に出た比較的単純な文を読んだだけで、聞き手を入れたのは社会的な場に近づけるためだったが意図的にやりとりを含まない設計だった、と著者自身が限界を認めています。吃音は主に意味のあるやりとりの中で現れるものなので、日常の会話にどこまで広げて読めるかには注意が要る、とも書かれています。
指導者・チームメイトにできること、そして相談先
役割の割り当ては、部やチームの運用でいくらでも変えられます。号令や宣誓は、複数人で声を合わせる形にする、担当を持ち回りにする、代わってもらえる相手をあらかじめ決めておく——どれも、技術指導とは無関係のところで済みます。声を合わせて読むことが一時的に流暢さをもたらす条件のひとつとして挙げられていることも、全員で唱和する形が現実的な落としどころになりうる理由の一つです。
本人に確かめるときは、漠然と「困っていない?」と聞くより、場面を具体的に挙げるほうが届きます。資料は、真似されていないか、笑われていないか、話し方を質問されていないかを率直に尋ねること、そして日直の号令や音読、発表といった特定の場面を名指しして聞くことが、困りごとの早期の発見につながるとしています。
相談先としてまず名前が挙がるのは、言語聴覚士と、幼児・学齢の子ども向けのことばの教室です。大人の場合、言葉の訓練だけで楽になる例は多くないとされ、半数を超える人で心理面への対応が必要になると説明されています。具体的には、考え方のくせに働きかける認知行動療法や、頭の中で場面を予行演習する方法、そして周囲へ自分から吃音を伝えて協力を求めるやり方が挙げられています。同じ資料は、わざとどもってみせる方法などで自分が吃ることを周りに知らせておくと、心理的な負担が減って楽にやりとりできるようになる、とも書いています。
次のようなときは、様子を見るだけで抱え込まず、相談を考えてみてください(あくまで目安で、当てはまらなくても相談して構いません)。
- 部やクラスで話し方を真似されたり笑われたりしている
- 役を断るために、練習や大会そのものを避け始めている
- 話す場面が近づくと、その日ずっと気持ちが沈んでいる
この3つは、相談を考えるきっかけとして一般的に挙げられるもので、特定の資料が「受診の目安」として定めているものではありません。
スポーツの場で陥りがちな3つの落とし穴
落とし穴1 − 「試合では出ないんだから、本気を出せば言える」と考える
プレー中に困らないのは、その場面がとっさの動きと短い言葉で成り立っているからです。一方、号令や宣誓は、覚えきっているのに伝える責任だけが重い型の言葉で、理論はここを最も起きやすい条件として挙げています。しかも、詰まりは「どもりたくない」と強く思っているときにこそ起きるとされています。本気の量で説明できる現象ではありません。
落とし穴2 − 苦手な場面を数だけ増やして慣れさせようとする
力を入れて押し切る対処はおそらく裏目に出ていると論じられており、流暢さそのものを目標にして意識的な制御を増やすやり方も、かえって引っかかりを増やして失敗感につながりうると指摘されています。慣らしていく手続きは、訓練の枠組みの中で組み立てられるものとして書かれています。逃げ場のない場面を任せることと同じではありません。
落とし穴3 − 有名選手の名前を、裏づけを確かめずに励ましに使う
英国の支援団体の一覧は、吃音があるとされていても一次情報が見つからない人物には、名前の横に疑問符を付けて区別しています。同じ一覧は、ある人物について「父親の扱いが原因で吃音になった」という伝記の記述に触れたうえで、親が吃音の原因になることはないと明記して打ち消してもいます。誰の名前を挙げるかより、その名前がどこまで確かめられているかのほうが、長い目で見れば本人の支えになります。
日々の様子(どんな場面で出やすいか、どのくらい続いているか)を書き留めておくと、言語聴覚士やことばの教室に相談するときに役立ちます。まずは気づいたことを記録しておくことから小さく始め、相談できる場があるならそちらが確実です。
よくある質問
吃音があるとスポーツ選手にはなれませんか?
そのようなことはありません。日本のプロバスケットボール選手が自身の吃音を公表し、講演活動も行っていることが、スポーツメディアの実名取材記事で報じられています(本文の「コートの上と、コートの外」の節を参照)。米国と英国の吃音支援団体も、分野別の当事者一覧の中にスポーツ選手の区分を設けて名前を公開しています。
なぜ競技中はどもらないのに、挨拶や号令で言葉が出ないのですか?
ある理論は、考えずにできる自動の話し方と、意識して組み立てる話し方のどちらかに極端に寄った発話はかえって流暢になり、覚えきっているのに伝える責任が重い話し方で最も起きやすいと整理しています。号令や宣誓は後者に当たります。学会の解説も、中高生が話しにくさを感じやすい場面として部活動を挙げています。
吃音はスポーツの「イップス」と同じものですか?
同じものだと確かめられたわけではありません。ただし、プレッシャーのかかった場面で運動が意のままにならなくなるイップスやあがりと、脳の同じ仕組みが関わる現象として並べて説明できるという指摘があり、イップスの主観的な体験はどもっている瞬間の体験と驚くほど似ているという報告にも触れられています。これは新しい実験データではなく、仮説として提示されたものです。
部活の顧問として、号令や宣誓をどう扱えばいいですか?
役割の割り当てを変えるだけで済む場合があります。複数人で声を合わせる形にする、持ち回りにする、代わってもらえる相手を先に決めておく、といった調整です。声を合わせて読むことは、一時的に流暢になる条件のひとつとして挙げられています。本人への確認は「困っていない?」より、真似されていないか、笑われていないかなど場面を具体的に挙げるほうが届くとされています。
苦手な場面を経験させて慣れさせるのは効果がありますか?
力を入れて押し切る対処はおそらく裏目に出ていると論じられています。怖さに慣らしていく手続きが役立ちうるとも書かれていますが、それは訓練の枠組みの中のものとして述べられています。流暢さそのものを目標にする訓練が、かえって引っかかりを増やして再発と失敗感につながりうるという指摘もあります。
まとめ
- 困りやすいのは競技そのものではなく、その前後の挨拶・号令・宣誓・連絡。学会の解説も、中高生が話しにくさを感じやすい場面として部活動を名指ししている。
- 姿の見えない聞き手が部屋にいるだけで、吃音のある成人の唇の動きは型にはまった硬い方向へ変わった。吃音のない成人にはこの変化が無かった。
- 覚えきっているのに伝える責任が重い言葉——名前、号令、宣誓——で最も起きやすいと説明する理論がある。
- その「固まる感じ」は、スポーツのイップスやあがりと並べて説明できるという指摘がある。ただし仮説であり、実験のほうも実験室での限界を著者が認めている。
- 力んで押し切る対処や、流暢さだけを目標にするやり方は裏目に出うる。役割の割り当てを変えることと、言語聴覚士・ことばの教室への相談のほうが現実的。