まず結論から
- 吃音は、話す場面・相手・課題が変わると、出方や重さが目に見えて変わります。これはでたらめな揺れではなく、繰り返し確かめられてきた構造のある現象だと整理されています。
- そのなかでも、誰もいないところでの独り言、歌、何人かで声をそろえて読むとき、強い高揚や没頭の状態では、吃音が確実に軽くなることが繰り返し報告されています。
- つまり「あの瞬間、大きな声で言い切れた」ことと、「吃音が無くなった」ことは、別のできごとです。学会の解説も、歌うときや声を合わせるとき、独り言のときには一時的に流暢になる人が多い、と書いています。
- 調子の良い状態・悪い状態が数週間から数か月続く「波」もあるため、ある時期だけ軽く見えることもあります。
- 当事者団体は、テレビ・ラジオ・映画で吃音のある声が聞こえてほしいと求める一方で、「克服した」「打ち負かした」「治した」という文脈で扱わないでほしいとはっきり書いています。
ただし、この記事は特定の放送回そのものを確かめられる一次の資料を持っていません。放送日・企画の内容・出演した方の年齢や現在の様子・放送後に何があったかについては、確かめようがないため一切書いていません。ここで扱えるのは、「叫んだら言えた」という出来事が吃音という現象のどこに位置づくのか、という一般的な説明までです。
「あの場では言えた」は、その人の中でも珍しいことではない
画面の中で言葉が出てきた瞬間を見ると、多くの人が「気持ちの持ちようだったのか」と受け取ります。けれど、吃音のある人自身は、場面によって自分の話し方が変わることを、もっと早い時期から具体的に知っていることがあります。
当事者の声(フリーアナウンサー・小倉智昭さん。ラジオ番組の書き起こし記事。聞き手は番組のパーソナリティ)
小倉:自分のリズムで話せる独り言は吃音にはならない。それと、歌を歌っているときもつっかえない。
植竹:言われてみればなんとなくわかります。
小倉:一時期、僕の話には“メロディ”がつくことがあったんですよ(笑)。
植竹:へええ! 歌みたいに話せば大丈夫だったからですね。
小倉:そうしたら、「なんか話し方が変じゃない?」って言われました(笑)。あとは、教科書をみんなで読むときも吃音にならないし、かえってうまいと褒められたんです。演劇の舞台に立ってセリフを言うときもつっかえない。そういうことに気付いていって、「ひょっとしたら俺は話す職業に就けるかもしれない」と思うようになったんです。
話す仕事を長く続けてきた人が、少年時代に犬の散歩をしながら河原で独り言を試し、どこが人と違うのか、どうすればなめらかに話せるのかを自分で探っていった、と振り返っています。同じ記事の中で本人は、吃音“だった”のではなく今でも吃音なのだと述べ、電話や突然話を振られたときには今も出ると語っています。つまり、つっかえない場面が見つかったことと、吃音が消えたことは、本人の中では同じ話ではありません。この落差は、研究の側でも中心的な題材として扱われてきました。
出典: 小倉智昭 吃音に苦しんだ幼少期…それでも「アナウンサー」を志した理由とは?(TOKYO FM+)(台帳: V0126)
吃音がどの場面で軽くなり、どの場面で重くなるかは、ばらばらの体験談ではなく、まとまった整理があります。レビュー論文は、吃音が確実に軽くなる場面として、誰もいないところでの独り言、歌うこと、何人かで声をそろえて読むこと(斉読)、強い高揚や没頭の状態、話し方を変えたときを挙げています。反対に確実に重くなる場面として挙がっているのは、聴衆の前、目上の人を相手にするとき、そして自己紹介や自分の名前を言うときです。
声をそろえて読む場面では参加者の全員に改善が見られたものの、どれくらい軽くなるかには個人差が大きく、報告されている改善の幅はおよそ77.6〜99.7%、別の研究では90〜100%とされています。歌う場面でも全員に強い改善が見られ、そのうえで人による差はやはり残った、と書かれています。
日本の学会の解説も、歌を歌うとき、2人で声を合わせるとき、独り言を言うときなどには、一時的ですが流暢になる人が多い、と述べています。「一時的」という言葉がここに入っていることが大事です。さらに同じ解説は、調子の良い状態あるいは悪い状態が数週間から数か月にわたって続く人も多く、こうした変動を「波」と呼ぶと説明しています。番組であれ日常であれ、ある一場面や、ある一時期の様子だけを見て全体を判断できない理由がここにあります。
「歌えば大丈夫」が、いつもそうとは限らない
では、歌ったり大きな声を出したりすれば、そのたびに言葉が出るのでしょうか。同じ場面でも同じように働くとは限らない、ということを、自分の身に起きたこととして書き残している人がいます。
当事者の声(60代女性・吃音について講演やライブ活動をしている/個人ブログ)
確かにカラオケでもバンドのボーカルとしてでも歌なら人前でも自由に唄える
でも
歌であっても
歌詞の最初の言葉が出て来なくて唄えなくなる時がある
先月の終わりに若い友達の結婚式に招待され披露宴で歌を唄うことになり
「吃音があっても歌なら唄える」——自分でも時々口にする言い方だ、と前置きしたうえで書かれた記録です。夫がウクレレを初めて練習して二人で演奏することになり、練習中は何の問題も無かったのに、前日のリハーサルで歌い出しの言葉が出なくなった。本人はこれを、以前に作ったオリジナル曲でも起きていたこととして書き、一度出ないと意識してしまい、次からは出ない確率が高くなる、と続けています。本番は、歌い出しの直前までリズムを刻んでもらうこと、最初のフレーズを夫にも一緒に歌ってもらうことで乗り切ったそうです。この「同じ人でも、同じ場面が毎回同じには働かない」という性質は、研究の側でも独立した区分として置かれています。
出典: 「吃音があっても歌なら唄え」ません(>_<)(Ameba)(台帳: V0382)
レビュー論文は、場面による変わりやすさを3つに分けています。第一は、流暢になりやすい場面と重くなりやすい場面が繰り返し確認されている、決まった型の変動。第二は、1日のうちでも、数日から数か月の単位でも出方が変わる、時間による変動。第三は、同じ場面が人によって逆向きに働くことがあるという個人差です。3つ目があるために、誰かに効いた条件がそのまま別の人にも効くとは言えません。
言い換えのきかない場面が難しくなる理由も整理されています。吃音のある人は、言いにくい語を別の語に置き換えれば流暢に言えることが多い一方で、いちばん適切だと自分が判断した語でこそ詰まる、という現象が起きます。そして自分の名前を言うときのように、言い換えられる語が一つしかない場面では、その回避が使えません。テレビの企画で「自分の言葉で叫ぶ」形が取られたとしても、その人の日常にある自己紹介や電話とは、条件がかなり違います。
相談の場でも同じことが起きます。発達障害ナビポータルは、保護者が強く心配して相談に来ても、実際にその子と話すと思ったほど症状が出ないことが多く、そこで「気にならないですね」「軽い吃音ですね」と言われることは養育者にとってプラスに働くことが少ない、と注意を促しています。目の前で言えたかどうかは、その人の困りごとの大きさとは別だということです。
詰まった声が、本人の意図を超えて流れるとき
感動的な場面として語られるとき、置き去りになりやすいのが「映される側」の感覚です。テレビではありませんが、自分の詰まった声が大勢に向けて流されることになった経験を、具体的に書き残している人がいます。小学校の国語の時間に、物語をクラスの人数分に分けて一人ずつ読んだ声を録音し、それを給食の時間の放送で流すと先生から伝えられた日のことです。
当事者の声(24歳・理系大学院卒/個人ブログ note)
そのときは、緊張よりも先に、「そこまでしなくてもいいのではないか」という気持ちが出てきました。
当時の私は、自分から吃音への配慮を求めることはできませんでした。それでも、自分が詰まりながら読んだ声を、多くの人が聞く放送で流されることには抵抗がありました。
結局、録音では普段と同じように言葉に詰まりながら読みました。
給食の時間に放送されたときは、聞かないように耳を塞いでいました。
順番が回ってくるまで、あと何人かを数え、自分が読むことになりそうな文章を何度も見る——本人はこの待ち時間を、読んでいる時間そのものより長く重いものとして書いています。読み終えたあとも前を向けず、自分を責める時間が始まった、とも。放送された自分の声がどう流れていたかは覚えていない、ただ耳を塞いでいたことは覚えている、という一行で記録は閉じられます。当事者団体が発信する側に向けた指針を作っているのは、まさにこの「受け取る側ではなく、映される側」に何が起きるかを踏まえてのことです。
出典: ④地獄の丸読み(note)(台帳: V0241)
英国の当事者団体は、指針の冒頭で、吃音が長いあいだ「性格の欠点や身体的な不足を表すため、そして笑いを取るために」使われてきたと書いています。そして、こうした型にはめた描き方には現実の帰結があり、吃音のある人は流暢に話す人より弱く能力が低いと誤って受け取られ、話し方に否定的で不適切な反応を向けられることが多い、と続けます。
同じ指針は、取材する・配役する・一緒に働く相手が吃音のある人であるときの具体的な応じ方も並べています。さえぎらずに話し終えるまで待つこと、ときどきうなずいて聞いていると伝えること、自然な目線を保ち居心地悪そうな顔をしないこと。そして話し方の良し悪しを口にしたり、流暢に話せたことを褒めたり祝ったりしないこと——それは吃音が悪いことだという考えを補強してしまうから、と理由まで書かれています。詰まったときに冗談にしないこと、憐れまないこともここに含まれます。この指針は配布物としても公開されていて、放送で使う・学校や職場に持っていく、といった使い方が呼びかけられています。
「治った」を結末にしない、という当事者側の言葉
番組の物語では、多くの場合「良くなった」で幕が下ります。けれど、日本の吃音の自助活動の歴史は、その結末を置かないところから始まっていました。
当事者の声(伊藤伸二さん・82歳/1976年の「吃音者宣言」を起草。地方紙の連載記事。地の文は記者による)
10代のころは吃音が出ることを恐れ、勉強も部活もせず友達もいなかった。21歳で東京の吃音矯正所に入ったが「ここへ来るのは3回目」と入寮者が話すのを聞き、「治すのではなく共に生きていこう」と決めた。
意気投合した当事者10人と66年に言友会を設立し、吃音者宣言へつなげた。「昔と比べて随分しゃべれるようになったが、訓練のおかげではない。仲間と気分良くしゃべっているうちに自然に変わっていく」
そう確信する伊藤さんだが94年、言友会とたもとを分かった。吃音への考え方が違うと感じたためだ。現在は「日本吃音臨床研究会」(大阪)の会長として、相談会などを開催。「僕は治らんって言ってしまうから、子どもがわーっと泣いたりします」と伊藤さん。でも「どもっていても大丈夫」と伝え続けている。
矯正所に3度目の入所をしているという人の言葉を聞いた21歳の時点で、この人の向きが変わっています。記事に抜粋された宣言の本文には、治すことに執着するあまり悩みを深めている人がいること、その一方でどもりながら明るく前向きに生きている人も多くいることが、並べて書かれています。そして宣言は自らを「私たち吃音者の叫びであり、願いであり、自らへの決意である」と呼んでいます。半世紀前のこの「叫び」は、症状を消すための叫びではありませんでした。研究の側でも、吃音の管理と「治す」は同じではないことが、支援する側に向けた指針の中で明文化されています。
出典: 「どもっていても大丈夫」、吃音者宣言起草の伊藤さん 支持広がらずも伝え続ける思い(中日新聞Web)(台帳: V0119)
当事者団体の指針は「事実」の束として、吃音は弱さでも欠陥でもないこと、呼吸のしかたが悪いなど本人が何か間違ったことをしているから起きるのではなく神経に由来するものであること、緊張しているから吃るのではないこと、そして方略を学んで管理したり和らげたりはできても、治すものではないことを並べています。もし緊張して見えるとしたら、それは話し方を繰り返し笑われてきたからだろう、とも書かれています。同じ指針は、言葉づかいの規則として「打ち負かす」「克服する」という言い方を避けるよう求めています。
一方で、吃音のある人が語ること自体には測られた効き目があります。米国の成人212人を無作為に割り付けた比較研究では、吃音のある人の体験談を聞く「接触」、思い込みを事実に置き換える「教育」、否定的な態度を批判する「抗議」の3つがいずれも、何もしない条件より、決めつけ・否定的な感情・差別的な意図を下げました。なかでも肯定的な態度を高める効果がもっとも大きかったのは、当事者の体験談を聞く「接触」で、その効果は1週間後まで続いています。同じ研究は、啓発の役割は支援する側が、肯定的な態度づくりは当事者自身が対人的な接触を通じて担える、と整理しています。番組に出ることの意味を考えるなら、「治ったかどうか」より、この違いのほうが実際的です。
「これをしたら治った」という話は、なぜ広がりやすいのか
「叫んだら治った」に限らず、吃音には「これで良くなる」という話が数多く流通します。どんな内容が実際に多いのかを数えた研究があります。中国の動画共有サービスで、いいねの多い吃音関連の動画100本を集めて調べたところ、役に立つと判定されたのは4%、体験談が22%で、誤解を招くと判定されたものが74%を占めました。しかも誤解を招く動画のほうが視聴者のいいねを集めやすく、患者教育用の評価表で測った分かりやすさは平均53.0%、行動に移しやすさは平均24.3%と、どちらも低い水準でした。
これは中国の特定のサービスで2024年5月に集めた動画を対象にした研究です。日本のテレビ番組や日本のSNSの数字ではありませんし、数えた対象は動画であって人ではありません。
この研究は、広まっている誤った情報が一般の人と吃音のある人の双方の理解を誤らせうるとして、信頼できない情報について広く注意を促すことと、根拠に基づく啓発の必要を説いています。あわせて、専門的な訓練を受けていない自称「矯正家」が誤った情報を広めているという先行研究の指摘も引いています。
感動的な結末と相性が良い話ほど届きやすい、という構図は、吃音に固有のものではありません。だからこそ、当事者団体は発信する側に向けた指針を配布物として置き、放送で使ってほしい、線を越えた表現に出会ったらどの線を越えたのかを相手に伝えてほしい、と呼びかけています。テレビ・ラジオ・映画で吃音のある声が聞こえること自体は望まれていて、求められていないのは「克服した」「治した」という枠に入れることのほうです。
番組を見て気になったら、どこへ相談できるか
自分や家族のことが気になって調べ始めた場合、相談先ははっきりしています。日本吃音・流暢性障害学会の解説は、年齢や状態に合わせた助言・指導について、小児を扱う言語聴覚士や、ことばの教室の教員に相談するよう案内しています。話しやすくなるように周囲の環境を整える方法、直接発話に働きかける方法、吃音のことを理解する方法などが挙げられています。
思春期以降は、最初の音が出しにくくなる状態(難発)が中心になり、話し始める前から不安を感じて会話や社交を避けるようになったり、言いにくい単語を言い換えて吃音を隠したりすることがあります。同じ解説は、困難を感じやすい場面として、中高生では部活動や入学の面接、大学生ではゼミの発表や就職活動、社会人では職場の電話応対を挙げています。隠すことで吃音は目立たなくなりますが、実際には出ないかを日々警戒しながら生活することになる、とも書かれています。
相談に行ったその場で症状が出ないこともあります。そこで「気にならないですね」と言われても、それは困りごとが小さいという意味ではありません。気になる場面や頻度を書き留めておくと、そのずれを埋める材料になります。
同じ立場の人と出会える場もあります。学会の解説は、当事者が「吃音があるのは自分だけではない」と認識し、共通の体験を語り合い、互いに援助し合うことを活動の中心とする自助団体を紹介しており、1965年に発足した言友会が国内で最も歴史が古いとしています。若者を対象とした団体や、女性の集いを開催する団体もあると書かれています。
作品を通じて知る道もあります。都道府県の言語聴覚士会が、吃音のある人自身が監督したドキュメンタリー映画の上映会を、会のお知らせとして掲載していたことがありました。告知には、普段は成人の分野で働く人にも小児の分野で働く人にも、吃音とともに生きる若者たちの取り組みを一緒に見ないか、という呼びかけが添えられています。支援する側に向けても、こうした場が作られているということです。
番組を見たあとに陥りがちな3つの落とし穴
落とし穴1 − 「あの場で言えたのだから、普段も言えるはず」と考える
独り言・歌・声をそろえて読むこと・強い高揚や没頭といった条件では、吃音は確実に軽くなることが繰り返し報告されています。一方で、聴衆の前や自己紹介、自分の名前を言う場面では確実に重くなることも同じように報告されています。片方の条件で言えたことを、もう片方の条件に持ち越すことはできません。「頑張れば言えるはずだ」という励ましは、この落差を見落としたところから出てきます。
落とし穴2 − テレビで見た結末を、自分や家族の見通しとして当てはめる
吃音には、調子の良い状態・悪い状態が数週間から数か月続く「波」があります。ある時期だけ軽く見えることも、その逆もあります。さらに、同じ場面が人によって逆向きに働く個人差も、独立した区分として置かれています。誰かに起きたことをそのまま自分の見通しに置き換える根拠は、いまのところありません。
落とし穴3 − 「よく話せたね」と褒めることで、応援しているつもりになる
当事者団体の指針は、話し方の良し悪しを口にすることや、流暢に話せたことを褒めたり祝ったりすることを避けるよう求めています。理由は、それが「吃音は悪いこと」という考えを補強してしまうからです。代わりに挙げられているのは、さえぎらずに最後まで待つこと、うなずいて聞いていると示すこと、自然な目線を保つことです。もし身近な人のことが気になったなら、話し方に点数をつけるより、どの場面で困っているかを聞くほうが役に立ちます。日々の様子を書き留めておくと、相談のときにも持っていけます。
よくある質問
番組で叫んだら吃音が治った、というのは本当ですか?
この記事は、特定の放送回について確かめられる一次の資料を持っていないため、番組内で何がどう伝えられたかについては判断できません。一般論として言えるのは、強い高揚や没頭の状態では吃音が確実に軽くなることが繰り返し報告されている一方で、それは場面による変化であって、吃音そのものが無くなったことを意味しないということです。学会の解説も、歌うときや独り言のときなどには「一時的ですが」流暢になる人が多い、という書き方をしています。
大きな声を出したり歌ったりすれば、吃音は良くなりますか?
歌や、何人かで声をそろえて読む場面では、参加者の全員に改善が見られたと報告されていますが、どれくらい軽くなるかには大きな個人差が残ります。また、同じ場面が人によって逆向きに働くことがあることも、独立した区分として整理されています。「歌なら唄えるはずなのに歌い出しの言葉が出なかった」という当事者の記録もあります。方法として試すかどうかは、言語聴覚士に相談しながら決めるのが確実です。
番組に出ていた方は、いまどうしているのですか?
お答えできません。出演された方はテレビに映ったこと以外は私人であり、氏名・現在の生活や健康状態について確かめられる資料がないためです。推測で書くことは、本人が公開していない情報を広げることになります。当事者団体の指針も、吃音のある人の話し方について外から評価を加えないよう求めています。
テレビで吃音が取り上げられるのは、良いことなのでしょうか?
当事者団体は、テレビ・ラジオ・映画で吃音のある声が聞こえるようにしてほしいと求めています。ただし「克服した」「打ち負かされた」「治した」という文脈ではなく、あらゆる内容を作っている声の豊かな模様の一部として、という条件つきです。実際に、吃音のある人の体験談を聞く「接触」は、周囲の肯定的な態度を高める効果がもっとも大きく、1週間後まで続いたと報告されています。
番組を見て自分の話し方が気になりました。まずどうすればいいですか?
小児を扱う言語聴覚士や、ことばの教室の教員への相談が案内されています。相談の場ではたまたま症状が出ないこともありますが、そこで「気にならないですね」と言われても困りごとが小さいということではありません。気になる場面や頻度を記録して持っていくと話が早くなります。同じ立場の人と出会える自助団体も各地にあります。
まとめ
- 吃音は場面によって出方が変わる。独り言・歌・声をそろえて読むこと・強い高揚や没頭では確実に軽くなり、聴衆の前・目上の人・自己紹介では確実に重くなると整理されている。
- だから「その場で言い切れた」ことと「吃音が無くなった」ことは別。学会の解説も、そうした場面での流暢さを「一時的」と書いている。
- 同じ場面が人によって逆向きに働く個人差があり、数週間から数か月続く調子の「波」もある。一人の結末を他の人の見通しに置き換えることはできない。
- 当事者団体は、テレビ・ラジオ・映画で吃音のある声が聞こえることを求める一方、「克服した」「治した」という枠に入れないよう求めている。流暢に話せたことを褒めるのも避けるよう書かれている。
- 当事者の体験談を聞く「接触」は、周囲の肯定的な態度を高める効果がもっとも大きく、1週間後まで続いた。
- 気になったら、小児を扱う言語聴覚士やことばの教室の教員に相談を。その場で症状が出なくても、困りごとが小さいわけではない。