まず結論から
- 吃音が相手・場面・日によって変わることは、研究のうえで定義まで与えられている現象で、でたらめな揺れではないとされています。
- 誰もいないところでの独り言・歌・声を合わせて読むときは軽くなり、聴衆の前・目上の人に向かって話すとき・自己紹介や自分の名前を言うときは重くなりやすい、という向きが繰り返し確かめられています。
- ただし、どの場面が苦手かは人ごとに違い、全員に共通する「出やすい場面」は挙げられていません。
- 吃音のある成人では、職場や集団の中で話すときに強い恥ずかしさを感じる人が多く、家庭で話すときが最も低いと報告されています。
- 出方が時や場面で変わること自体を、7割を超える当事者が、苛立ちの大きい側面として挙げています。
ただし、「なぜ相手で変わるのか」の仕組みは、研究者自身が「説明できるように見える」と書く段階の仮説です。相手や場面と吃音の重さの結びつきも、日常の中で同時に記録された関係であって、その相手が原因だと確かめられたわけではありません。この記事は、そこを越えて断定しません。
家族や友人の前では出ないのに、その人の前だと出る
いちばん多い戸惑いは、これでしょう。家では出ない。仲のいい相手とは話せる。なのに、ある特定の相手の前では、最初の音が出てこない。相手によって出方が変わることに高校生のときに気づいた人の記録から始めます。
当事者本人の声(幼少期から吃音・千葉県出身の Kay さん/自助団体のメディアへの寄稿)
更に、これは現在もですが、相手によって吃音症状の波があります。
これに気づいたのは高校生の時。女子と話している時に、友達から「女子と話すときはあんまり吃らないんだな」と茶化されたことがありました。その時は、そんなわけないと流していましたが、よく考えてみると女子の方が話しやすい傾向にあることが多い気がしました。
今のご時世、性別によって分ける考えはあまりよろしくないとは思いますが、女子の方が急かしたり茶化したりせずに、こちらに合わせて話をしてくれる友人が多かったので、話すストレスが少なかったことはあると思います。(もちろん逆、話しやすい男友達もいます。)
中学生のとき、数学の授業で「かっこ」という言葉がまったく出てこなかった一方、国語の音読では他の生徒が苦戦していた段落読みを一発で通して周りに驚かれた——この人は、そうした記憶から自分の吃音に「波」があることに気づいたと書いています。高校で友人に茶化された一言は、その波が相手によっても動くことを教えました。本人が挙げている理由は、急かさず、茶化さず、こちらに合わせて話してくれる相手だと、話すストレスが少なかった、というものです。相手が誰かによって同じ人の中で吃音の重さが動くことは、成人当事者の日常を繰り返し記録した研究でも観察されています。
出典: 症状に波があるのはなぜか?振り返ってみた。(HAPPY FOX)(台帳: V0162)
その研究は、吃音のある成人に、日常生活の中で繰り返し、そのときの気分と吃音の重さを自分で記録してもらったものです。同じ人の中での気分と吃音の重さの揺れは、場面のさまざまな要因によって有意に動いていました。とくに、一人でいるときに比べて、距離のある相手とやり取りしているときには否定的な気分が高まり、その効きめは、人と関わる場面での不安をもともと感じやすい人(特性としての社交不安が高い人)でより大きなものでした。
別の調査は、場面ごとの恥ずかしさを直接たずねています。吃音のある成人のうち、集団の中や職場で話すときに強い恥ずかしさを感じた人は65%、家庭で、あるいは自分にとって大切な相手に話すときにそう感じた人は35.5%でした。恥ずかしさが最も低かったのは、家庭で話すときです。
ただし、「家では楽で、職場ではつらい」が全員の話ではありません。成人当事者への調査で、変動が起きる場面を自由に書いてもらったところ、挙がった場面や場所は人ごとに違い、ある人が変わりやすいと挙げた場面を、別の人は安定した場面として挙げていました。相手が誰か、どれだけ急かされるか、聞き手がていねいかどうか——回答の中で変動の理由として書かれていたのは、そうした聞き手の側の条件です。
普段は出ないのに、あてられた時だけ言葉が止まる
「特定の人の前」と並んで多いのが、「特定の場面」です。ふだんの会話ではほとんど出ないので、周りは気づいていない。けれど、名前を呼ばれて答えなければならない瞬間だけ、言葉が出てこない。中学生のころのことを、大人になってから公募の作品に書いた人がいます。
当事者本人の声(丹佳子さん・執筆時41歳・市役所職員/自助団体の公募「ことば文学賞」受賞作の再掲)
これを友達に話したら大爆笑された。これは、私のどもりはいつもどもるのではなく、普段の会話はそんなにどもらないのだが、授業であてられたときなどに、突然言葉が発せなくなるタイプのどもりだったので、クラスの違う友達は私がどもりで悩んでいるというのを知らなかったせいもある。変な人と思われるのが嫌だったので、その後人に打ち明けることはなかったが、この考えは私の中で重要な地位を占めるようになった。
中学生のとき、読んだ小説の一節から「どもりは自分が背負うべきもの」という考えを持つようになった、とこの人はその直前に書いています。それを友達に話したら、大爆笑された。笑った友達は、この人がどもりで悩んでいることを知らなかった——普段の会話ではそれほど出ず、授業であてられたときなどに突然言葉が出なくなる型だったからです。出る場面が限られているぶん、周りには見えない。見えないから、打ち明けない。研究の側は、吃音がほぼ確実に軽くなる場面と、重くなりやすい場面を、分けて記録してきました。
出典: 第16回ことば文学賞~あるどもり人(びと)の告白~(日本吃音臨床研究会)(台帳: V0157)
軽くなる側に並ぶのは、誰もいないところでの独り言、歌、みんなで声を合わせて読むこと、そして強く没頭したり気分が高揚した状態です。重くなる側に並ぶのは、聴衆の前で話すこと、目上の人に向かって話すこと、自己紹介や自分の名前を言うこと——伝える責任が重い場面や、人にどう見られるかの圧がかかる場面です。慶應義塾大学病院の解説も、吃音の主な症状には、特定の単語・音・行を苦手とする「一貫性」、出やすい時期と出づらい時期がある「波現象」、一度言えるとその後は言いやすくなる「適応効果」といった特徴があり、そのほかに斉読(だれかと一緒に読む)・歌・ひとりごとではどもりにくいと説明しています。神経科学の側の研究をまとめた論文も、声に出した独り言には吃音が出ず、人や聴衆に向けた発話や伝える目的を持つ発話で出ることを、よく知られた現象として挙げています。
では、「あてられたとき」「名前を言うとき」だけ出るのはなぜでしょうか。ある論文は、発話を「自動で出るもの」と「意識して組み立てるもの」の組み合わせで説明します。とっさの叫びや決まり文句のように自動で出る発話も、訓練で習った新しい話し方のように意識して組み立てる発話も、どちらかに寄っていれば頭の中のぶつかり合いが小さく、流暢になりやすい。難しいのは、その両方を同時に強く使う発話です。自分の名前を言うことは、本来よく覚えていて努力のいらない行為なのに、「言ってください」と求められた場面では、伝える責任の重さから意識的な制御を過剰に使ってしまう、と説明されています。授業であてられて答える場面は、「自動でできるはずのことを、責任を負って意識的にやる」というこの形に近いように見えます——ここは出典の範囲を超えた、この記事側の読み方です。
順番が回ってくるのを待つ時間が、いちばん出る
「特定の場面」の中身をもう少し見ると、場面そのものより、その場面を待っている時間のほうが効いている、という記録が出てきます。本読みの順番を待っていた小学生のころを、40代になって書いた人の手記です。
当事者本人の声(40代男性・ハンドルネーム「がんば」/自助団体サイトの体験談欄)
自分の読む場所を予測し、頭の中で練習を繰り返していた。
国語の成績が特に悪かったのは、それが原因かどうかは分からないがかなり関係あると思う。
同じ本読みでも突然当てられた場合は、待ち構える間の恐怖がないせいかどもることも少なく気持ちが楽だった。
友達や先生に恵まれ、からかわれた記憶はあまりない、とこの人は書いています。それでも、順番に回ってくる本読みだけは嫌いで、自分の番が来るのがとても怖かった。どもってみんなから笑われるのが嫌だったのかもしれない、と本人は振り返っています。自分の読む場所を予測して頭の中で練習を繰り返し、その授業は勉強に身が入らなかった。ところが、同じ本読みでも突然当てられた場合には、待ち構える間の恐怖がないせいか、どもることも少なく気持ちが楽だった——同じ教室、同じ教科書、同じ聞き手で、違ったのは「待つ時間があったかどうか」だけです。この、話す前に「出そうだ」と感じる働きは研究の側で「予期」と呼ばれ、吃音のある成人にごくよく報告される現象として整理されています。
出典: 体験談 2.40代男性 がんば(広島言友会)(台帳: V0175)
慶應義塾大学病院の解説は、思春期以降に加わっていく症状として、「この言葉は吃音が出そうだな」と予感できるようになる予期不安(また詰まるかもしれないと先に不安になること)、予感した言葉をとっさに別の言葉に置き換える言い換え、人前や電話など話す場面を避けてしまう回避行動を挙げています。
吃音のある成人の不安について研究を集めた総説(研究をまとめた論文)は、話す前に吃音の瞬間を予期することを、恥ずかしい瞬間が来ると内側で先取りして感じる体験と定義し、最大で77%の成人が予期を「よく」経験すると報告した研究を引いています。この予期には、会議や集まりを前に何日も考え続ける長いものと、話している瞬間に起きる短いものがあり、その頻度は吃音の重さや治療を受けた経験とは結びついていなかった、ともあります。本読みの順番を待つ小学生が頭の中で繰り返していた練習は、この「長い予期」の姿です。
そして、揺れが読めないことそのものが、次の場面への予期不安を高め、「自分にはできる」という感覚を削り、人と関わる場を狭め、避けることを増やしうる、と変動を扱ったレビューは述べています。順番を待つ時間は、この連鎖がいちばん見えやすい場面の一つでしょう。
家では言えていたのに、本番で止まる——子どもの場合
相手や場面で変わるのは、大人だけではありません。保護者にとって切ないのは、家ではすらすら言えていたことが、いざという場面で出てこない瞬間です。年長の息子の生活発表会を、母親が連載のブログに書いています。
保護者(母)の記録(吃音のある年長の息子・名義「しまうま」/個人ブログの連載4回目)
そして迎えた当日。劇の中盤くらいに登場の息子、ちょっと顔こわばってる だいじょうぶ……か…??
そしていざ、セリフ!! フリーズ なぜなんだ… あれだけ家でスラスラと他の子のセリフまで完コピしていたのに
そこで先生が助け舟。舞台の袖でピアノを弾いていた先生がずっとささやき女将してくれてて 先生、ほんとうにありがとうございます
年長の12月の懇談で小学校への引き継ぎの話が出て、卒園前の2月には生活発表会で劇がある——母親の不安は、そこから始まっています。息子は役に自分で立候補し、他の子のセリフまで全部頭に入れて、家では言えていた。当日、セリフの場面で止まり、舞台袖でピアノを弾いていた先生がささやいたとおりに復唱して、劇は進みました。終わったあとの本人は「ちょっと間違えちゃった」くらいの調子で、母親は、いちばん辛いのは息子なのに自分もやっぱり辛かった、と書いています。家で言えることと本番で言えることが同じでないのは、この子だけの話ではありません。国の調査でも、吃音のある人は特定の場面で困り感が増すことが示されています。
出典: 「親愛なる我が息子について」連載の第4回(アメブロ)(台帳: V0055)
厚生労働科学研究の研究班は、吃音症について180名分のデータを集め、解析の結果、吃音のある人は特定の場面で困り感が増加することが分かったとしています。そのうえで、困難度を見つけるための問診票を幼児・学童期・青年期以降のライフステージごとに作り、信頼性と妥当性を検証しました。「どの場面で困るか」を年齢ごとに聞く道具が公的な研究で作られていること自体が、場面差が例外ではないことを示しています。
変動を扱ったレビューは、症状の揺れを「場面」「課題」「時間」の三つの向きで考える枠組みを示し、場面による変動を、環境や社会的な文脈の要求の違いに結びついた症状の変化と定義しています。家の中と舞台の上は、同じセリフでも、要求がまるで違う場面です。
周りの反応も、無関係ではありません。子どもの吃音のリスク要因を集めたレビューでは、子ども自身が自分の話し方に否定的に反応することと、周囲(親族・学校など)が子どもの話し方に否定的に反応することの両方が挙がり、より予測力が高かったのは周囲の反応のほうでした。同じレビューは、家族や学校への健康教育が、子どもの吃音の引き金や維持のリスクを減らしうると論じています。この母親が先生から聞いた、日直で言葉に詰まった息子にクラスの子たちが声援を送り、からかう子が一人もいなかったという場面は、その反対側にある光景です。慶應義塾大学病院の解説も、どの年齢にも共通して言えることは、吃音が生じたとしても安心して話せる環境を作ることだとしています。
体調と、その場にいる人——同じ人の中で動くもの
ここまでの4人に共通するのは、「出る・出ない」が一人の人の中で動いている、ということです。長く吃音とともに暮らしてきた人は、その動きをどう言葉にしているのでしょうか。作家の重松清さんが、吃音を取材した本の書評の中で、自身のことを書いています。
当事者本人の声(作家・重松清さん/新潮社のウェブマガジンに載った署名の書評)
僕も一番症状がひどかった十代後半の頃に比べると、五十代後半のいまはずいぶん楽に話せるようになった。しかし、近藤さんはこうも言う。〈もしかすると、何かをきっかけにすべてが元に戻ってしまう可能性もあるだろう〉。自分を引き合いに出しすぎて申し訳ないが、僕も体調の悪いときや、その場に嫌いな奴がいるところでは、ひどいことになってしまう。
書評の対象は、吃音を約五年かけて取材した近藤雄生さんの『吃音 伝えられないもどかしさ』です。〈 〉の中はその本からの引用で、著者自身がかつて吃音に苦しみ、二十代の終わりに突然症状が軽くなった経緯が本に書かれている、と重松さんは紹介しています。そのうえで自分を引き合いに出し、十代後半に比べて五十代後半のいまはずいぶん楽になった、しかし体調の悪いときや、その場に嫌いな人がいるところではひどいことになる、と書いています。年単位の変化と、その日の体調と、その場の相手——三つの違う時間の目盛りが、一つの文の中に並んでいます。研究の側も、変動を一種類のものとしては扱っていません。
出典: 〈書評〉理解されない苦しさ、を理解するために。(考える人・新潮社)(台帳: V0132)
場面差を整理した総説は、変動を三つに分けています。第一は、流暢になりやすい場面と悪化しやすい場面が繰り返し確認されている定型的な変動。第二は、一日のうちでも、数日から数か月の単位でも吃音の頻度や重さが変わる、時間による変動。第三は、同じ場面や課題に対して人によって反応が違うという個人差です。日本吃音・流暢性障害学会の解説も、調子が良い状態、あるいは悪い状態が数週間〜数か月にわたって続く人が多く、この変動を(調子の)「波」と呼ぶと説明しています。
当事者10人に、自分の吃音がどう変わるかを詳しく聞いた研究では、語られた変わりやすさが四つのテーマにまとまりました。ランダムさと周期的なパターン、内側の状態にかかわる要因、特定のきっかけ、そして社会的な場面で自分がどう見られていると感じるか、の四つです。研究者は、人からどう見られるかへの意識が目立った点が、以前から言われてきた変動のとらえ方(周りに認めてもらいたいという関心)と重なる、と述べています。重松さんの「その場に嫌いな奴がいるところでは」という一文は、この四つめのテーマに重なります。
なぜ相手で変わるのか——研究が考えている仕組み
吃音が場面によって頻度も長さも大きく変わり、それが話し手の内側の要因と外側の要因のやりとりから生まれることは、よく記録されてきました。ただしその記述の多くは聞き手の側の視点からで、話す本人の視点をとらえた研究は乏しい、とも指摘されています。この記事が当事者の記録を先に置いたのは、そのためです。
そのうえで、2026年に出た総説は、場面差を一続きに説明する仮説を提案しています。吃音が現れる場面と消える場面を分けているのは、自分の話し言葉の誤りに意識的な注意が向いているかどうかと、社会的評価——人にどう見られるかの基準や期待、他者からの反応に照らして自分を判断する働き——がはたらいているかどうかの、二つだというものです。この二つが重なる場面で吃音が現れ、どちらか、あるいは両方が欠けると大きく減り、消えることもある。独り言では聞き手がいないので社会的評価が働かず、歌や斉読では注意がメロディーやリズムに割かれて誤りを見張る働きが弱まる、という説明です。ただし著者ら自身が「説明できるように見える」と書いており、確かめられた仕組みではありません。
特定の相手の前で重くなることを、この枠組みで読むなら、その相手の前では「どう見られるか」の判断が強くはたらき、同時に自分の話し方を見張る注意も強まる、ということになります。逆に、急かさず茶化さずに聞いてくれる相手の前では、その圧が下がる。冒頭の高校生の記録が言っていたのは、まさにそのことでした——ただしこの当てはめは、出典の範囲を超えた、この記事側の読み方です。
注意がどこへ向くかについては、実測があります。総説は、人と関わる緊張した場面で、吃音のある青年・成人が注意を自分の内側——心拍や発汗といった身体の反応、否定的な考え——へ向けることを、複数の研究が報告していると整理しています。聴衆に向けてスピーチをする実験では、吃音のある人は聴衆の表情にかかわらず聴衆をあまり見ず、背景を見ている時間が長かったという結果もあります。相手を見ないぶん、相手からの手がかりが受け取れず、会話そのものが崩れうる、というのが理論の側の読みです。「あの人の前だと相手の顔が見られない」という体験は、ここに接続します。
人前で発話の動きがどう変わるかを直接測った研究では、聴衆がいる条件で、吃音のある成人だけ、文の中の唇の動きがより決まりきった型に寄り、より安定する方向へ動きました。「人前だと乱れる」ではなく「人前だと硬くなる」——この結果の詳しい読み方は、緊張と吃音の記事で扱っています。
最後に、線引きを一つ。人前で言葉がつっかえるのは吃音のない人にも起きますが、同じ総説は、吃音のない人の場合は情動だけが源であるのに対し、吃音のある人では発話を作る側にもともとある違いが誤りの信号として読み取られる点が違う、と区別しています。「誰でも緊張すればどもる」と、吃音を同じ棚に置くことはできません。
周りの人にできること・自分から伝えるとき・相談先
吃音ポータルサイトは、吃音の問題の大きさを、吃音の言語症状(X軸)、それに対する周囲の反応(Y軸)、その両方に対する本人の反応(Z軸)の三辺をかけ合わせた立方体の体積で表す、ウェンデル・ジョンソンというアメリカの研究者の考え方を紹介しています。言語症状がそれほど大きくなくても周囲の反応が大きければ問題は大きくなる、という例も挙げられています。特定の人の前で出やすくなるという話は、Y軸の話でもあります。
周りの人が何をすればよいかについて、当事者の回答に出てきた聞き手側の条件は、相手が誰か、どれだけ急かされるか(話す順番を競う、話をかぶせる)、聞き手がていねいかどうか、でした。冒頭の高校生の記録で挙げられていたのも、急かさない・茶化さない・こちらに合わせて話してくれる、という相手の側の振る舞いです。慶應義塾大学病院の解説が、どの年齢にも共通することとして挙げているのは、吃音が生じたとしても安心して話せる環境を作ることでした。
自分の吃音を相手に伝えるかどうか、どう伝えるかは本人が決めることですが、判断の材料はあります。模擬面接の実験では、吃音のある応募者が面接の冒頭でひと言、吃音があると伝えた条件で、吃音のない応募者との評価の差が消えました。伝え方を比べた研究では、謝る言い方ではなく事実として伝える言い方のほうが、伝えない場合より聞き手の受け止めが良くなっていました。面接の場面でのくわしい判断材料は、面接でのカミングアウトの記事にまとめています。
そして、変動そのものを知っておくことにも意味があります。変動を扱ったレビューは、変動を吃音に本来そなわった当たり前の特徴として見られるようになると、揺れが「いらだたしいこと」から「予期されること」に変わり、悪影響が和らぎうると述べています。吃音が時間をまたぎ、文脈をまたいで自然に揺れると知ることで、一貫した型を探すことから離れ、伝えることのほうに意識を向けられるようになる、とも。周りの人が「家では出ないのに」と不思議に思うことは、本人にとっては吃音の当たり前の揺れです。
相談先は、言語聴覚士(ことばの訓練の専門職)のいる医療機関やことばの教室です。大学病院の耳鼻咽喉科に吃音の専門外来が置かれ、言語聴覚士や臨床心理士と協働して支援している例もあります。予期不安・言い換え・回避行動が強くなると社交不安障害(人と関わる場面での強い不安が続き、生活に支障が出る状態)を伴っていると判断される場合があり、病院に来る成人吃音の半分程度は社交不安障害を伴うとするデータもある、と同じ解説は述べています。次のようなときは、「特定の人の前だけだから」と抱え込まず、相談を考えてみてください(あくまで目安で、当てはまらなくても相談して構いません)。
- 特定の相手や場面を避けることが増え、仕事や学校での選択肢が狭まってきた
- 話す場面が近づくと、何日も前から考え続けてしまう
- 出る場面でのつらさを、家族や友人に話せないまま一人で抱えている
この3つは相談を考えるきっかけとして一般的に挙げられるもので、特定の資料が「受診の目安」として定めているものではありません。どの相手・どの場面で出やすかったかを書き留めておくと、相談のときの材料になります。
「特定の人の前だけ」で陥りがちな3つの落とし穴
落とし穴1 − 「家では出ないのだから、本当は困っていない」と受け取る
家庭で話すときの恥ずかしさが最も低く、職場や集団の中で高いという場面差は、調査で確かめられています。しかも、出方が時や場面で変わること自体を、7割を超える当事者が苛立ちの大きい側面として挙げています。家で出ないことは、困っていない証拠ではなく、吃音のごく普通の出方です。国の調査も、吃音のある人は特定の場面で困り感が増すとしています。
落とし穴2 − 「あの人の前で出る=あの人が原因」と決める
相手や場面と吃音の重さの結びつきは、日常の中で同時に記録された関係であって、その相手が原因だと検証されたものではありません。仕組みの説明も、研究者が「説明できるように見える」と書く段階の仮説です。急かさない・かぶせないといった聞き手の振る舞いが圧を下げることは当事者の回答にも出てきますが、それは「誰かのせい」を決めることとは別です。相手を責める向きに使うと、伝えられる相手が一人減ります。
落とし穴3 − 出ない場面の自分を基準にして、出る場面を避け続ける
予期不安・言い換え・回避行動が強くなると、社交不安障害を伴っていると判断される場合があるとされています。揺れが読めないことは、予期不安を高め、人と関わる場を狭め、避けることを増やしうるとも述べられています。避ければその場は楽ですが、「出る場面」だけが残っていきます。どの相手・どの場面で出やすかったかを記録しておき、増えているようなら、相談先に持っていくのが近道です。
よくある質問
家族の前では出ないのに、上司や初対面の人の前だと出ます。気のせいですか?
気のせいではありません。吃音が場面や相手によって変わることは、研究のうえで定義まで与えられている現象で、でたらめな揺れではないとされています。吃音のある成人では、職場や集団の中で話すときに強い恥ずかしさを感じた人が65%、家庭や大切な相手に話すときにそう感じた人が35.5%と報告され、家庭で最も低くなっていました。距離のある相手とやり取りしているときに否定的な気分が高まることも、日常の記録から示されています。
特定の人の前でだけ出るのは、その人が原因ですか?
そこまでは言えません。相手や場面と吃音の重さの結びつきは同時に記録された関係で、原因だと検証されたわけではありません。研究者が提案している仮説では、人にどう見られるかの判断と、自分の話し方を見張る注意が重なる場面で吃音が現れる、と説明されますが、著者ら自身が「説明できるように見える」段階だと書いています。当事者の回答では、急かされるか、聞き手がていねいかといった相手の振る舞いが理由として挙がっています。
普段はどもらないのに、あてられた時や自己紹介だけ出ます。これも吃音ですか?
聴衆の前で話すこと、目上の人に向かって話すこと、自己紹介や自分の名前を言うことは、吃音が重くなりやすい場面として研究で繰り返し確かめられています。自分の名前を言う場面は、本来は努力のいらない行為なのに、伝える責任の重さから意識的な制御を過剰に使ってしまうと説明されています。ただし、ご自身の状態がどれに当たるかは、言語聴覚士のいる医療機関やことばの教室で見てもらうのが確実です。
周りの人はどう対応すればいいですか?
どの年齢にも共通して言えることは、吃音が生じたとしても安心して話せる環境を作ることだとされています。当事者の回答に出てきた聞き手側の条件は、どれだけ急かされるか(話す順番を競う、話をかぶせる)、聞き手がていねいかどうかでした。子どもについては、周囲が話し方に否定的に反応することが、リスク要因の中で予測力の高いものとして挙げられています。
自分の吃音のことを、相手に伝えたほうがいいですか?
伝えるかどうかを決めるのは本人ですが、材料はあります。模擬面接の実験では、冒頭でひと言吃音があると伝えた条件で、吃音のない応募者との評価の差が消えました。伝え方を比べた研究では、謝る言い方ではなく事実として伝える言い方のほうが、伝えない場合より聞き手の受け止めが良くなっていました。伝えた相手が、その後の「出にくい相手」になることもあります。
まとめ
- 吃音が相手・場面・日で変わるのは、研究が定義まで与えている現象で、でたらめな揺れではない。独り言・歌・斉読で軽くなり、聴衆の前・目上の人・自己紹介で重くなりやすい向きは繰り返し確かめられている。
- 家庭で話すときの恥ずかしさが最も低く、職場や集団で高い。距離のある相手とのやり取りでは否定的な気分が高まる。ただし、どの場面が苦手かは人ごとに違う。
- 「待つ時間」が効く。話す前に「出そうだ」と感じる予期は最大で77%の成人が「よく」経験し、吃音の重さとは結びついていなかった。揺れが読めないことが、予期不安と回避を増やしうる。
- 仕組みとしては、人にどう見られるかの判断と、自分の話し方を見張る注意が重なる場面で現れる、という仮説が提案されているが、確かめられた段階ではない。相手が原因だとも言えない。
- 周りの人にできるのは、急かさない・かぶせない・安心して話せる環境を作ること。周囲の反応は吃音の問題の大きさを決める一辺として位置づけられている。避ける場面が増えているなら、言語聴覚士やことばの教室へ。
